土地に根ざした経験と思考「今津景 タナ・アイル」東京オペラシティ アートギャラリーで3/23まで
インドネシア・バンドンを拠点とする今津景の大規模個展「今津景 タナ・アイル」が、東京オペラシティアートギャラリーで開催されている。会期は2025年3月23日まで。
展覧会タイトル「タナ・アイル」とは、インドネシア語で「土」と「水」を意味し、二つを合わせると「故郷」を表す。この言葉には、作家の出身地である日本と、現在の生活基盤であり、パートナーや子供の出身地でもあるインドネシアの二つの「故郷」への深い思索が込められている。
さらに本展では、インドネシア固有の「土」と「水」という自然環境をテーマに据えることで、鑑賞者一人一人に「生きる場所」の意味を問いかける。
2017年からインドネシア・バンドンを拠点とする今津景は、デジタルとアナログを融合させた独自の制作手法で知られており、近年は同国の都市開発や環境汚染といった、社会問題をテーマにした作品を多く手がけてきた。一貫した表現手法の中で、選び取るモチーフは作家の関心や感覚とともに変化し、そこに今津の視線と思考が色濃く反映されている。
展示風景より、《Repatriation》(2015)
インターネットやデジタルアーカイブから収集した画像を、コンピュータ・アプリケーションで加工し、その下図をもとに油彩画として再構築する。美術大学在学中からPhotoshopを活用し、特に2012年以降は「指先ツール」によるぼかしや引き延ばしの効果が、彼女の作品の特徴的な要素となっている。
巨大なキャンバスに描かれる個々のモチーフは、その形態を認識できる具象性を保ちながら、ゆがみや引き延ばしによって変形されている。複数のレイヤーの重なりや単色の背景は、PCウィンドウやデジタル空間を想起させる視覚効果を生み出し、液晶画面特有の現代の知覚体験を絵画空間に反映させることを試みている。
展示風景より
展覧会の最初の展示室は、インドネシアと日本の歴史的関係を掘り下げた作品群で構成されている。
中心的な作品《Anda Disini(You are here)》(2024年)は、バンドン北部に位置するゴア・ジパン(旧日本軍要塞洞窟)をテーマにしている。この洞窟は第二次世界大戦中、日本軍がインドネシアの人々を「ロムシャ」として強制労働させた場所だ。画面中央には「GOA, JAPANG」の文字とともに、日本軍兵士が地元民を使役する様子が描かれている。
今津は2017年のバンドンでのアーティストインレジデンス時に、この洞窟を訪れた。厳しい労働の跡が刻まれた岩壁に、日本軍がインドネシアの人々に与えた苦痛を見出し、強い衝撃を受ける。展示されている洞窟の巨大な写真や、兵士と労働者を描いた絵画群からは、インドネシアでの生活を通じて直面した、日本人としての歴史認識や葛藤が浮かび上がってくる。
展示風景より、《Bandoengsche Kininefabriek》(2024)
この展示室のもう一つ、バンドンの近代化を象徴するキニーネ産業の歴史に焦点を当てており、インスタレーション作品《Bandoengsche Kininefabriek》(2024年)は、マラリアの特効薬として知られるキニーネの歴史と、その複雑な社会的背景を表現している。
19世紀末、バンドンは世界最大のキニーネ生産地となった。オランダ政府主導で設立されたキニーネ工場は、第二次世界大戦中に日本軍に接収され、その後インドネシアの国営製薬会社として変遷を遂げている。この歴史は、オランダと日本による植民地支配の痕跡を如実に物語っている。
作品は、マラリアを媒介する蚊が人体に侵入し、血流を通じて感染が拡大する様子を、ディストピアSF的な様相で表現。同時に、キニーネの商業的展開(トニックウォーターや精力剤としての利用)に関する資料も組み込み、医薬品が持つ多面的な意味を浮き彫りにしている。
展示風景より、バグース・パンデガによる作品《Yesteryears》(2023)部分
中盤の展示室の一角には、今津のパートナーであるバグース・パンデガによるインスタレーション作品《Yesteryuears》(2023年)が、今津の作品群と対応しながら展開されている。これらはインドネシアの東ジャワ州に位置し、噴火により多くの人々が住居を失うという悲劇を引き起こした世界最大規模のシドアルジョの泥火山をテーマとしている。
パンデガの作品は、泥火山の噴火で失われた家々の記憶を、住民たちへの聞き取りをもとに3Dプリンターで再現しようとする試みであり、泥を素材に用いることで、失われた家々の物質的な痕跡をとどめている。
一方、今津は泥火山の南を流れる川と、この地域の主要産業であるエビ養殖に着想を得た絵画作品を展示。地域の自然環境と人々の生活を独自の視点で描き出している。両作家の作品は、自然災害によって失われた共同体の記憶と、新たな生活を模索する人々の姿を浮き彫りにしている。
展示風景より、手前は《SATENE’s Gate, Patalima & Patasowa sculptures》(2023)
後半にある最大の展示空間では、インドネシア・セラム島の神話「ハイヌウェレ」と作家自身の出産体験が交錯する、本展の核心的な作品群が展開されている。フェミニティを想起させるピンク色の床面に、鑑賞者の侵入を阻みながらも歓迎するような鉄製のゲート、巨大な絵画、空中に浮かぶ骨のオブジェ、地母神を思わせる柱像、植物や身体の断片を模した造形物が配置されている。
「ハイヌウェレ」は、ココナッツから生まれ、排泄物が金や陶磁器といった財宝に変わる力を持つ女性の名。当初はその力を人々に重宝されたが、やがて恐れられ、祭りの際に土中に生き埋めにされてしまった。しかし、切断され埋められた彼女の遺体からは、タロ芋やヤムイモなどの根茎類が生え、島の人々を支えたといわれている。
今津は、インドネシアで自身が経験した出産と、この神話を重ね合わせている。インドネシアには出産後に胎盤を埋める風習があり、今津も出産後の胎盤を庭に埋めたところ、その場所から大きな植物が育った。この体験が、異邦人として恐れられながらも豊穣をもたらした、ハイヌウェレへの共感を呼び起こした。
展示の中心に位置する《SATENE’s Gate, Patalima & Patasiwa sculptures》(2023)は、ハイヌウェレの死後の重要な場面を表現したもの。ハイヌウェレの殺害を知り怒った、サテネという神は、瞬時に左右に分かれた鉄のゲートを設置。村人たちに、ハイヌウェレの両手を持ってそのゲートを通過するよう命じ、殺人に加担したものはゲートを通るとハイヌウェレの手で叩かれ、動物や精霊に姿を変えられたそうだ。
無事に通過した者は、左を通った「パタシワ」と右を通った「パタリマ」の二つの集団に分かれ、現在のセラム島の社会構造にも残されているという。
今津の作品では、サテネの身体の中心に芋の花として表現された子宮が配置され、その周囲を取り巻く芋や蔓、葉が生命力に満ちた豊穣のイメージを形作り、母性と再生のテーマを象徴的に表現することで、神話の現代的な解釈を試みている。
展示風景より、《Lost Fish》(2021)
展覧会の締めくくりとなる長い通路状の展示室では、「Lost Fish」シリーズを展開。これは、「世界一汚染された川」とも呼ばれるチタルム川の環境問題を主題とした作品群だ。バンドンからジャカルタ湾まで流れるこの川は、繊維工場からの有毒廃棄物、生活排水、プラスチックごみによって深刻な汚染に直面している。
展示風景より、《Lost Fish》(2021)
17世紀にオランダ人が実施したチタルム川の生態調査に基づく図鑑をもとに制作された作品は、すでに多くが絶滅したとされる魚たちを一匹一匹丹念に描き出している。注目すべきは、作品の支持体として、チタルム川流域の住民たちが実際に使用していた木材が選ばれている点。これにより、失われた生態系と地域の人々の生活の痕跡が重層的に表現されている。
本展示会は、展覧会タイトル「タナ・アイル」(土と水)が示唆する自然と人間の関係性を、グローバルな環境問題と地域の暮らしの交差点から捉えた、インドネシアと日本というふたつの土地に根ざした今津ならではの視点が印象的だ。二つの文化に根ざした今津の作品群は、鑑賞者に新たな視点を与えてくれるだろう。
文=鈴木隆一
写真=新井まる
【展示会概要】
今津景 タナ・アイル
会期|2025年1月11日〜3月23日
会場|東京オペラシティ アートギャラリー
住所|東京都新宿区西新宿3-20-2 東京オペラシティビル3F
開館時間|11:00〜19:00 ※入場は18:30まで
休館日|月(ただし祝日の場合は開館し、翌平日休館)、2月9日
料金|一般 1400円 / 大高生 800円 / 中学生以下無料