”画家の中の画家”日本初の個展『ピータードイグ展』
ピーター・ドイグは1959年、エジンバラ(スコットランド)生まれの現在61歳。トリニダード、カナダ、ロンドンと各国を移動し、現在はトリニダード・トバゴとロンドンを拠点にアート界の最前線で活躍している。
これまで世界の名だたる美術館で個展を開いてきたが、〈東京国立近代美術館〉での本展は日本の美術館では初めてのものになる。現在臨時休館中である本展であるが、話題のマターポートとライカを駆使した美しい画像で実際に美術館で鑑賞しているかのような体験ができる3Dオンラインビューイングのコンテンツも準備されている。
▼オンラインビューイングはこちらから▼
https://my.matterport.com/show/?m=S9i1qmZrEVQ
外出を自粛している方も、そもそも遠方で中々訪れることが難しい方でも気軽に鑑賞ができるチャンスなので、みどころポイントをお伝えしたいと思う。
《エコー湖》1998年、テート蔵 ≪カヌー=湖≫1997~98年、ヤゲオ財団コレクション、台湾
まずはピーター・ドイグについて
彼のアーティスト人生は決して最初から順風満帆だったわけではない。
10代までカナダで過ごした後、アート関係に進みたいと考えロンドンのセントラル・セント・マーチンズに進学。卒業後はアルバイトをしながら制作活動をしていたが、再びカナダに戻った。すると、以前は退屈だと思っていた風景が新鮮に感じられ、その風景を主題に”今ならば新しいものが描けるのでは”と感じたという。
そして1989年、30歳の時に再びイギリスに渡り、大学院で学び直す。
当時のイギリスでは、ヤングブリティッシュアーティストが流行し、大規模なインスタレーションやセンセーショナルなものが話題になっていた中で、ピータードイグは具象でオーソドックスな絵画を描いた。それが逆に当時の人たちにとって新鮮だったため、卒業後はすぐに注目を集め始めることになる。
彼は絵画と向き合い続ける真摯な姿勢から、”画家の中の画家”と称される。本展も昨今の展覧会では珍しく絵画作品のみの展示だが、スケールの大きい作品が多く、世界観が伝わってくるため見ごたえは十分だ。
展示順に鑑賞することで彼の成長や興味の変化を感じる
本展は初期から最新作まで72点が展示されており、順路に沿って彼の画家としての歩みを辿ることができる。
最初の展示室には初期の作品が展示されているが、この頃のドイグの作品にはフランスのナビ派の画家ピエール・ボナール(1867年~1947年)やエドヴァルド・ムンク(1863~1944年)の影響がうかがえる、全体的に暗めの色彩で描かれた風景画が多く、どこか不穏な空気を感じる。
《街のはずれで》1986〜1988年、作家蔵 ©Peter Doig. All rights reserved, DACS & JASPAR 2020 C3120
ドイグ自身が、キュレーターが本作を選んだことを「面白いチョイスだと思った」と話すのは、本展中最も古い作品である《街のはずれで》だ。
「この絵を描いた当時、私はアーティストとして身を立てたいと思っていたけれど充分な収入を得ることは難しく、自分がどの方向に向かえばいいのかわからなくなっていた。《街のはずれで》は初めての風景画で、風景はこの一回限りになるかなと思っていたのですが、思いがけず私の出発点になりました」(ピーター・ドイグ)
カナダ時代に描かれた本作は、街のはずれで荒野をみている青年が描かれている。青年自体はドイグ本人ではなく友人がモデルとなっているが、内に秘めた情熱を感じる目力と、その視線の先に道なき道が描かれていることから、”ようやく自分の進むべき道が見えてきた…”といった当時の作者本人の心情が現れているように思う。
初期の作品はやや線画がぎこちなく感じる一方で、まだ自身の実力に満足していない滞りや若さからくるエネルギーをキャンバスにぶつけているのか鑑賞者をぐっと彼の世界に吸引する力がある。
《夜の沐浴者たち》2019年、作家蔵 ©Peter Doig. All rights reserved, DACS & JASPAR 2020 C3120
一方、展示終盤の部屋は直近5年間で制作された作品が中心となっている。
画面のなかで遠近感を曖昧にし、視覚効果を狙っていた絵画が多かった初期のスタイルから変化し、色面で構成していく絵画が増えててきた。
例えば、この《夜の沐浴者たち》は空、海、砂浜を大胆に3色の色面で分けて構成しており、砂浜に青白い女性が力なく横たわっている。一見すると沐浴中の女性というありふれた主題のようだが、注意深く鑑賞すると屋根の庇の下にとても小さな人物が描かれていたり、海の中に馬と思われる動物と人物、そして女性の右にはポーズを反転させたような男性が横たわる。
これらの登場人物の大きさとの互換性を考えると、この平面に見える空間がとてつもなく広く彼方先まで続いているかのようにも感じられる。
こういった各モチーフのスケール感をズラすことで視覚体験を意図的に複雑にしているのが面白い。
このように時代ごとに厚塗りから薄塗りになっていく等、表現の変化を展示室を移動する度にみてとれるのも本展の醍醐味のひとつである。
繰り返し描かれる”モチーフ”に注目する
”反射する水面”や”ボート”や”四角いブロック”など彼の作品には繰り返し登場するモチーフがある。
例えば並べて展示されているこの2つの作品を見てみよう。
《のまれる》1990年,ヤゲオ財団コレクション、台湾 《天の川》1989-1990年,作家蔵
特に多くの作品に登場するモチーフが”ボート”。《のまれる》は映画「13日の金曜日」(第1作)の、主人公がカヌーの上で襲われるシーンから着想したという。ドイグはこの景色をみたとき、恐怖感と美しい風景がムンクの絵画の雰囲気に非常に似ていると思ったのだとか。
一方、よく見ると、一見美しい夜景のようにも見える《天の川》にもボートが浮かんでおり、ぐったりとした人が乗っているように見える。川の水面には、これまたよく描かれている”反射”の要素が取り入れられているが、現実であるはずの画面上部の方が反射している下半分よりもぼやけて描かれ、ボートがなければキャンバスを上下逆さにした方が正しく思える人もいるのではないだろうか。非常に美しい自然なのにどこか毒を感じるこの風景画は、虚と実の関係が曖昧にする効果を見る人にもたらす。
《ポート・オブ・スペインの雨(ホワイトオーク)》2015年,作家蔵 《花の家(そこで会いましょう)》2007-2009年、ニューヨーク近代美術館蔵
《ポート・オブ・スペインの雨(ホワイトオーク)》はトリニダード・トバゴの首都、ポート・オブ・スペイン中心部にある拘置所がモチーフの作品だ。
鮮やかな黄色はフィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ(1853年~1890年)の影響を受けており、左側の急なパースペクティブは、ジョルジョ・デ・キリコ(1888年~1978年)を参考にしているという。
「そこから20分ほどのところにある動物園のライオンを見ていて、動物園の檻は拘置所に似ている、と思ったんです。通常はライオンが檻に入っているものですが、その逆に檻の外にいるライオンを描いてみようと思った」(ピーター・ドイグ)
ライオンはラスタファリ運動(アフリカにルーツを持つ人々の地位向上をめざす運動)のシンボル”ユダの獅子”であり、カリブ諸国ではグラフィティやTシャツの絵柄などでよく見かけるもので、植民地の歴史を想起させる。
ついライオンと人物にばかり目がいくが、ここで更に注目したいのは四角いブロックのような壁の塗り方。上記写真右にある《花の家(そこで会いましょう)》やその他作品にも四角いブロックのようなモチーフが含まれる作品が複数あった。
ボートやブロックのモチーフに対してメタファー的意味合いを付与しているかどうかについて、ドイグ自身は語っていないが、繰り返し登場するモチーフの相違点や共有点を探しながら鑑賞するのも面白い。
既視感とフィクションの融合
ドイグ作品の大きな特徴の1つが、”実と虚の境界線を曖昧にし、鑑賞者を揺さぶる”ことだといえる。
《スキージャケット》1994年、テート蔵 ©Peter Doig. Tate. Purchased with assistance from Evelyn, Lady Downshire’s Trust Fund 1995. All rights reserved, DACS & JASPAR 2020 C3120
《スキージャケット》は日本のスキーリゾートの広告からインスピレーションを受けたものなのだそう。
「混み合っているから、日本の労働者はレジャーのときもストレスを感じている。しかもスキーヤーのほとんどが初心者で、上手に滑れなくてもがいている。その姿が絵を描くことに似ていると思ったんです」(ピーター・ドイグ)
この絵はもともと右半分だけの縦長の絵だったが、画面に動きがないと感じて、後から左側にもう1枚キャンバスを継ぎ足したという。画面は左右で鏡像のようになっており、ここでもまた反射する図像にオブセッションを感じていることが窺える。
実は他にも日本に影響を受けている作品があるのでご紹介しよう。
《ラペイルーズの壁》2004年、ニューヨーク近代美術館蔵 ©Peter Doig. Museum of Modern Art, New York. Gift of Anna Marie and Robert F. Shapiro in honor of Kynaston McShine, 2004. All rights reserved, DACS & JASPAR 2020 C3120
実際に描かれているのはトリニダード・トバゴの墓地の壁だが、小津安二郎監督が映画『東京物語』(1953年公開)で表現した”計算された静けさ”が頭から離れず、この作品が生まれたという。
ドイグの作品はどこかで見たことがある景色のような、既視感をおぼえることがある。これは彼の制作方法によるのだが、《スキージャケット》や《ラペイルーズの壁》のように広告や映画からインスピレーションを得ていることもその理由の一つだ。新しいものを見るときは無意識のうちに自分の記憶の中と照らし合わせるが、作品全体が何かの1シーンをそのまま描写しているということはなく、リアリティと人の思念とフィクションが絶妙に混ざりあい構成されている。
展覧会全体を通してみてみると、上記の2作品以外も”観たことがありそうで、全く新しいドイグの世界”であることに気づくはずだ。
ドイグは(恐らく現代アーティストにおいて少数派だと思うが)、制作の動機は快く話す一方、テクニックやどのような手順で描いているかは誰にも教えないのだという。
作品によっては、水彩画のようにさらさらと着彩されている部分と、一部絵の具が溜まっているかのような塊として描かれている部分があり、まるでその作品自体が水の中に浸っているように見えたりするなど、じっくりと距離を変えながら鑑賞してこそ気付くこともある。
言うまでもなく実際に足を運ぶことを強くお勧めするが、それが難しくとも”最先端技術でどこまでオンライン上で見せることができているか”を是非ご覧いただきたい。
また、オンラインだからこそ、彼が影響を受けている数々のアーティストの作品を並べてみて、改めて見比べてみるのも面白いかもしれない。
急激にアート界にも押し寄せるオンラインの活用が、より多くの方が芸術観賞を楽しむきっかけとなることを願っている。
文:山口智子 写真:新井まる
【開催概要】
会場:東京国立近代美術館 1F企画展ギャラリー
会期:2020年2月26日(水)~6月14日(日)
開館時間:10:00-17:00 (金曜・土曜は10:00-20:00)
*入館は閉館30分前まで
休館日:月曜日(3/30、5/4は開館)、5/7(木)
※2月29日(土)~3月15日(日)は臨時休館いたします。
※臨時休館を当面の間延長します。再開の日は改めてお知らせいたします。
観覧料:
【当日券】 *( )内は、20名以上の団体料金。
⼀般 1,700(1,500)円
大学生 1,100(900)円
高校生 600(400)円
*いずれも消費税込。
*中学生以下および障がい者手帳をお持ちの方とその付添者(1名)は無料。
*本展の観覧料で入館当日に限り、同時開催の所蔵作品展「MOMATコレクション」(4-2F)、コレクションによる⼩企画「北脇昇 ⼀粒の種に宇宙を視る」(2F ギャラリー4)もご覧いただけます。
主催:東京国立近代美術館、読売新聞社、ぴあ
特別協賛:ジョージ・エコノム・コレクション、マイケル ヴェルナー ギャラリー、ニューヨーク/ロンドン
協賛:⼤⽇本印刷
協力:ヤゲオ財団、台湾、ライトアンドリヒト株式会社
美術館へのアクセス:東京メトロ東西線竹橋駅 1b出口より徒歩3分
〒102-8322 千代田区北の丸公園3-1
詳しくはアクセスマップをご参照ください。
特設サイト:https://peterdoig-2020.jp
3Dオンラインビューイング企画・制作:ARTLOGUE