芸術家たちの人生(1)フィンセント・ヴァン・ゴッホ
〜ゴッホとゴーギャン展に行く方必見!臨床心理士が読み解く「ゴッホ」〜
現在、上野の東京美術館で『ゴッホとゴーギャン展』が開催されている。これから足を運ぶ予定でいる方も、すでに足を運んだ方も、より展覧会が楽しめるようにゴッホの人生を少しだけご紹介したいと思う。
ゴッホは日本人にとってはとてもポピュラーな画家のため、おそらく多くの人が彼の作品を目にする機会が多いのではないだろうか。
今から2年前の夏、旅行先を検討している時、本屋で『地球の歩き方』をパッとひらくと、ゴッホ終焉の土地である、オーベル=シュル=オワーズが目に飛び込んできた。即座に、そこへ行くことに決めた。その時に撮影した現地の写真にも、ぜひ目を留めながら読んでいただきたい。
ゴッホの人生
なぜこんなにも1つ1つの色がただの色ではなく、そこに光が帯びているのか。
それがゴッホを好きになった理由だ。
ゴッホ…いったいきみの人生にはどんな物語があったのか。
まず、彼の人生を追いかけてみよう。
フィンセント・ヴァン・ゴッホが生まれたのは1853年。オランダの小さな村に生まれた。牧師の父、製本工の娘であった母と5人の弟妹。
16才で実家を離れ、画商グーピル商会のハーグ支店に4年間務める。失恋をきっかけにパリ支店に転勤するも、その後解雇される。父の影響もあったのかその後ゴッホは、聖職者を目指し、1878年、25歳で伝道師の仮免をとり、ベルギーの炭鉱地区ボリナージュに赴任。そこで貧しい労働者たちに強く心を寄せ、自分を犠牲にしてまで手を差し伸べた結果、身なりがボロボロになっていった。それが、教会から聖職者としての評判を落とすと考えられ、免許を剥奪される。聖職者としての道が閉ざされ、ついに、芸術の道への足を運び入れることになるのだ。
しかし、人間関係のトラブルも絶えず、常軌を逸する激しい言動をするゴッホに、父や親戚たちは見切りをつけていく。グーピル商会に勤めていた弟のテオが彼の経済的支援を生涯にわたり行なう。テオとの文通は何百通も残されており、彼ら兄弟の関係にも通常では考えられない深い結びつきがあるため、彼らは共依存だったのではないかという説もある。
フィンセント・ヴァン・ゴッホ 「ジャガイモを食べる人たち」 1885 ファン・ゴッホ美術館
初期のゴッホの作品は、ベルギーで見た苦しい生活を作品に描いており、このように色彩も重く暗いトーンで満ちている。これは貧しい生活に対する単なる同情ではなく、誠実な人生を送る人々への尊さから描かれているように思う。
1886年、32歳のゴッホはテオを頼ってパリに移り住んだのち、そこで他の画家たちから強い刺激をうけ、様々な技法を学んでは作品に取り入れていき色彩豊かな作品へと変化が生まれていくのだ。
ここがその頃住んでいた彼の家だ。この家があるモンマルトルは、かつて芸術家たちが集った地区で、ムーランルージュや映画「アメリ」のカフェからも程近く、パリの中では下町の雰囲気が漂っている。周りには、地域に密着しているような魚屋や肉屋が並び、そんな街のとある坂の途中にこの家はあった。
しかし、彼はどこかパリを息苦しいと感じたのか、1888年、南フランスのアルルに移り住み、半年ほど遅れてやってきたゴーギャンとの共同生活が始まる。しかし、それは長くは続かない。2ヶ月で2人の生活は行き詰まり、有名な耳切り事件をきっかけに、ゴーギャンはパリに戻り、ゴッホはサン=レミの精神病院に入院する。
そこから1年後の1890年、パリから電車で北上して2時間のところにあるオーベル=シュル=オワーズに移り住み、ここが終焉の地となる。ガシェという主治医のもと、入院生活ではできなかった戸外での絵描きに精を出す。この田舎町には、ゴッホの町と言っても過言ではないくらいにあらゆる場所に彼の絵パネルが飾られている。日本の田舎と同じような土と木々の懐かしい匂いが広がっている町だった。最後に下宿していた家では、彼の生涯を紹介する映像が上映され、彼の暮らした部屋をのぞくこともできる。
家のほど近くの教会。
そして、彼がモチーフとして愛していた麦畑だ。彼はここで何枚もの絵を描いた。
1890年7月27日、ここで彼は自分の胸に向けて拳銃の引き金を引いた。数日後、彼の人生は幕を閉じた。ゴッホの絵を世に出そうと買い手を探していた弟テオも、ゴッホの死後の6ヶ月後、その後を追うように亡くなった。1890年半ばに彼の作品が賞賛を浴び始めたことを、もちろん2人は知らない。麦畑のそばに、ゴッホとテオの墓が並んでいる。訪れた人々は献花をし、手を合わせていた。
絵への想い
彼の心の病気は一体何だったのか、そして最後は本当に自殺だったのか……真相はわからず、今や様々な解釈がされている。ゴッホは、情熱と狂気の精神世界をそのまま絵画作品に反映しているというイメージが強いが、彼の絵画は、専門家たちから正気を失った状態では決して描けないと評価されているほど、構成や色彩にはじまり多様な技法が織り交ぜられている。さらに彼の作品に対する思いは、残されていた多数の書簡からも垣間みることができる。
フィンセント・ヴァン・ゴッホ 「種まく人」 1888 クレラー・ミュラー美術館
テオに当てた手紙にこう書かれていた。「色彩や線を使えば、自分が芸術家として立てた目標を実現できる。その目標とは、人生の喜びも悲しみも表現することだ。」
1つの美しい風景から多くのことを感じ過ぎてしまう彼からすると、眼に映るのはは単なる風景ではなく、それは悲しみであり、苦しみであり、喜びであり、人生であったのだ。こうして心の中に強い衝撃や感情がわき立つと、人はそれを表現せずにはいられない。自分の中にあるプリミティブな感覚をそのまま表現する、「そのまま」のために彼は懸命に、実直に絵画への探求に情熱を注いでいったのではないだろうか。
僕が僕であるということ
フィンセント・ヴァン・ゴッホ 「ローヌ河の星月夜」 1888 オルセー美術館
私が一番好きな作品は、アルルの時代に描かれた「ローヌ河の星月夜」だ。パリのオルセー美術館でこの絵画を見た瞬間、こぼれ落ちそうな光の輝きに目を奪われた。言葉の通り本当にまぶしかったのだ。まばゆい光を放つ星が次から次に絵からこぼれ落ちていき、キラキラと目の前を明るく照らす。それは、心がぽっと暖かくなるようなそんな明るさでなく、孤独で胸が切り付けられるような刹那的な明るさだった。作品を印刷しているポスターやポストカードではなく、筆の跡が残っている本物の絵画を見ないと感じることができない衝撃がそこにあった。実はフィンセントという名前には隠された出生の秘密がある。この名前は彼が生まれる1年前に死産した兄の名前なのだ。青色と黄色の対比の調和が見事だと称されているこの先品から、その名前を背負った彼の中にある深い暗闇と彼の強い切ない想いが、対比されているように感じるのは私だけだろうか。
兄の代わりではない「自分」を認めてもらうことから運命がスタートしていたゴッホ。母の愛を強く求めていたこと、宣教師だった父とのすれ違い、自己の確立に苦しんだことなど、多くの人が様々な言及をしている彼の生い立ち。
私が感じることは、彼の中に「僕は僕でありたいんだ、僕は誰の代わりでもない僕なんだよ、僕を認めてよ。」と根源的な苦しみがあるということだ。そんな叫びを心の奥底に抱えた時、人は深い孤独の谷に落ちていきやすい。自分は本質的に誰からも認めてもらえていないんだと感じる時どんなに人は生き辛いか……。成功しても賞賛を浴びてもあの叫びが身体の周りに煙のようにしつこくつきまとう。大人になってそんな自分に気付いた人もいるだろう。ゴッホの場合、生きている間に彼の望む成功は得られなかった。賞賛さえも浴びなかった。人として極限に生きながらも、こんなにも懸命に絵を描き続けることができるものなのだろうか。僕が僕のままで生きていくための積み重ねを、絵を通して行っていたのかもしれない。僕は僕のままで生きていけるはずだという希望と僕は僕のままではだめだという絶望。その繰り返しの果てにあるものとはなんだろう。
労働者たちの姿に強く共鳴してしまう彼が、本当に救いたかったのは彼らの中に見た自分自身だったのかもしれない。
最後にゴッホに言いたい。ゴッホ、きみは苦悩に満ちた人生の中でも堅実に作品を描き続けた。実際のきみがどんな人かはわからないし、私たちは勝手に想像することしかできない。でも1つだけわかることがある。それは、きみの絵画がとてもすばらしい、ということだよ。
文・写真 Yoshiko
【情報】
ゴッホとゴーギャン展
会場:東京都美術館 企画展示室
会期:2016年10月8日 – 2016年12月18日
開館時間:9:30~17:30(金曜日は20:00まで)
※入室は閉室の30分前まで
休室日:月曜日
観覧料:一般1600円、大高生1300円
HP:http://www.g-g2016.com
<参考文献>
公式図録(2010)『没後120年 ゴッホ展 こうして私はゴッホになった』
公式図録(2016)『ゴッホとゴーギャン展』
ジョージ・ロッダム(2015)『芸術たちの素顔⑤僕はゴッホ』 絵:スワヴァ・ハラシモヴィチ 監訳:岩崎亜矢 翻訳:山田美明 パイインターナショナル