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「情」と「熱」をもつ画家、レオナール・フジタ

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2016年10月19日

「情」と「熱」をもつ画家、レオナール・フジタ


をもつ画家、レオナール・フジタ

 

DIC川村記念美術館(千葉県・佐倉市)では9月17日から2017年1月15日まで「レオナール・フジタとモデルたち」が開催中だ。

 

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<<アンナ・ド・ノアイユの肖像>>
1926年 油彩、カンヴァス DIC川村記念美術館 展覧会ポスターデザイン: 川添英昭

 

当展示では、レオナール・フジタ(藤田嗣治1886-1968)と、フジタの作品でモデルをつとめた人達との交流を、約90点の絵画とモデルに関連する書簡や写真から読み解いていく。

私はフジタと聞くと、あまり「楽しくなさそう」な表情を浮かべた子供たちが印象的な<<機械化の時代>>を思い浮かべる。立体駐車場付きミニ四駆やラジコンなど豪華なおもちゃに囲まれているが、どこか冷めた表情を浮かべる子供たちとのギャップが印象に残っていた。

また、フジタについては、おかっぱ頭に丸眼鏡という独特なスタイルと、またフランスに帰化して「レオナール・フジタ」と改名したことくらいしか知らなかった。そんな私だったが、当展示を観ていてくと 「こんな凄い日本人がいたなんて」と驚かずにはいられなかった。

 

【フジタの代名詞―乳白色の裸婦】

先ず驚いたのは、裸婦の陶器のような肌だ。やや暗い照明の展示室で観ると、まるでスッと浮かび上がるほど白くなめらかに見えた。

 

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フジタは浮世絵を参考にしっとりとツヤ消しの肌に、墨色の線描で裸婦や猫を描く技法「乳白色の絵肌」を編み出した。特に印象に残った<<眠れる女>>(1931)は、薄く下地が施された「乳白色の絵肌」の裸婦と、墨絵のような黒い背景、そして人物と背景を隔てる細い輪郭線の三つが、この一枚で見事に調和していた。作品のモデルをした「マドレーヌ」はフジタの4番目の結婚相手で、この作品完成後にはフジタと中南米の旅行にも連れ添った。

私は裸婦像といえば、印象派の巨匠ピエール・オーギュスト・ルノワールが描いた<<浴女たち(ニンフ)>>(1918-1919)で見られる、豊潤を象徴するふくよかな体つきの裸婦に、眩しい光が差し込む「楽園」のような作品をイメージしていた。しかし、フジタの<<眠れる女>>は細身の女性と猫を奥行きのない黒一色で描いた非常にシンプルな作品に思えた。また、この絵を観るとすやすやと恋人の横で眠る女性の日常を覗いてしまったようで、思わずドキリとしてしまった。

 

【フジタとキキ―絵を描く/描かれるの関係を超えて】

一方で、同じ横たわる裸婦を鉛筆で描いた<<裸婦 キキ・ド・モンパルナス>>(1929)からは、 <<眠れる女>>と裸婦の身体の描き方の違いを感じた。ゆるやかな曲線の身体つきのマドレーヌを描いた<<眠れる女>>に対し、<<裸婦 キキ・ド・モンパルナス>>でモデルを務めたキキは、胸・お腹・足に付けられた陰影で筋肉がうっすらと浮かぶより肉感的な身体だ。また、彼女のポーズも両腕を頭に組みながら、どこか挑戦的にも感じる強い視線をこちらに投げかけている。

フジタやシュールレアリスムメンバーの写真家マン・レイからもモデルとして愛された彼女。フジタと彼女の関係をDIC川村記念美術館の広報海谷さんは、お互いに支え合っていた「盟友」だったと話す。

キキは、フジタのサロン出世作<<ジュイ布のある裸婦>>(1922)をはじめ、数々の作品のモデルとしてフジタの成功を支えていった。その一方で、彼女が病気で仕事が出来ない時にはフジタが診療代を工面するために、自らモデルのアルバイトをした。

 モデル以外にも歌手、女優、画家として個展を開くなど、多彩な才能を見せたキキだったが、酒とドラッグに溺れていき、51歳でこの世を去った。かつて「モンパルナスのキキ」と呼ばれ華々しい人生を送った彼女の葬儀には、名のある画家たちは誰ひとり参列しなかったそうだ。そんな彼女に花を手向けるフジタの姿が、掲載された当時の記事もこの展覧会で見ることができる。他にも、<<ジャン・ロスタンの肖像>>(1955)の近くには、彼とフジタとの写真や、彼が肖像画の完成を喜び、早く作品を観たいとフジタに送った書簡も展示されている。

フジタは、モデルと絵を描く/描かれるの関係を超えた、より親密な関係を築いてったことがわかる。

 

【フジタの挑戦―群像画・戦争画】

そして、もう一つ驚いたことは、フジタと戦争との深い関わりだ。

2年に及ぶ中南米旅行を終えたフジタは、1933年に日本に帰国。そして、1937年の日中戦争でフジタは陸海軍に委嘱を受けて戦争画の制作を始め、1941年の第二次世界大戦中も引きつづき、戦争画を発表していく。戦争画は当初『作戦記録画』とも呼ばれ、軍部・画家にも主要な軍事作戦を歴史的な記録に残す意図があった。

数多くの画家が手掛けた戦争画の中でも、フジタの作品は傑出している。その理由には、フジタのパリ集大成の作品<<構図>>と<<争闘>>で見られる、群像表現が関係するそうだ。

乳白色の裸婦像によってパリでの成功を掴んだフジタが次に取り組んだのが、裸体像を中心に複数の人物で画面が構成される「群像表現」だ。

 

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西洋絵画でも権威が高いジャンルの神話や宗教、歴史などを描く大画面の構図に挑んでいき、ついに一点3メートル四方で、4枚合わせて12メートルに及ぶ大作<<構図>>(1928)と<<争闘>>(1928 )を完成させた。

<<争闘>>には、かつてフジタがマドレーヌやキキなどのミューズたちに施した乳白色の肌色の男性や女性たちが登場するが、皆筋肉隆々だ。まるで抗えない力に動かされて戦うかのような男、女、動物の姿にただただ圧倒されてしまった。

また、<<構図>>は日本史の教科書で一度は観たことのある南蛮屏風から着想を得たという。日本とフランスの二つの国を行き来し、真新しいヨーロッパの文化に触れることで、母国日本での伝統文化にも改めて目を向けるようになったフジタだからこそ描くことのできた作品のように思えた。

これらの作品で結実したフジタの群像表現を、戦争画では画面を埋め尽くすおびただしい数の日米の兵士達から見てとれる。凄惨な戦争をどのように描けば良いか、戸惑う画家も多かったなか、フジタはアジア各地の勝ち戦を主題にした<<アッツ島玉砕>>(1943)から日本戦局の厳しさを描いた<<サイパン島同胞臣節を全うす>>(1945)に至るまで、次々と戦争画を発表していき、大きな評判を呼ぶ。

しかし、1945年の敗戦後にフジタは日本美術界から戦争責任を問われてしまう。1950年には妻の君代を連れてフランスに戻り、その後フランス国籍を取得し、ランス大聖堂で洗礼を受けて名前を「レオナール・フジタ」へと改めた。そして、1968年にスイスの病院で永眠。

戦争に翻弄された悲劇の画家ともいわれるフジタだが、その一方で彼は戦争画を描く意味を見出していたようだ。「藤田嗣治全所蔵作品展が提起した、日本美術の可能性」(bitecho 2015)では、『いつかルーブル美術館に作品を収めると語り(…)それは、自分もレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロに負けないものが描ける野心があってのもの』とあるように、日本軍から強制的に戦争画を描かされたとは言い切れないように思えた。フジタはこの頃から、乳白色の裸婦像から見られるような奥行きのない平面的な描き方をやめ、戦争画をきっかけに新たに「遠くに広がる空間」の描き方を試していったそうだ。彼が戦争という、大きな時代の波にのまれなかったのは、自分が画家として今すべきことをそれだけ強く持っていたからだと思う。

 

【「情」と「熱」をもった画家、フジタ】

日本との決別を余儀なくされたフジタだが、その一方で、日本での家族を想うフジタの姿も見られるようだ。フジタが68歳の頃に描いた<<青の自画像>>(1954年)には、父や17歳当時の妻の姿を描いた肖像画が背景に描かれている。画家を志したフジタに理解を示してくれた軍医の父や、夫と共に異国の地フランスに渡った妻への感謝が込められているようだ。そして、彼らの前に立つフジタの力強いまなざしからは、不本意な理由で日本を去ることになっても絵を描きつづけていく決心も読み取れるように思えた。

乳白色の絵肌の裸婦に群像画、戦争画を経て、再びフランスに戻ったフジタは、宗教画や本の表紙や企業広告への素描提供、そして自身が眠るランスの礼拝堂の壁画の装飾と、次々と新たなジャンルに挑戦していく。

 

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また彼は、フランスと母国日本だけでなく、ブラジルやメキシコの中南米や中国などアジアの国々を訪れ、そこで観た風景、出会った人やその土地の文化を絵画に記録していく。

並大抵ならないエネルギーで描き続けていったフジタ。一方、彼が作品に描いた人たちとは、画家とモデルの垣根を越えて、より親密な関係を築いていった「情」も感じられる。

「情」と「熱」の両方をもった画家、フジタだからこそ彼の作品と彼の辿った一生は今も多くの人を魅了するのだと思う。

 

文:かしまはるか

 

【情報】

レオナール・フジタとモデルたち

会場:  DIC 川村記念美術館

会期:  2016年9月17日(土)~2017年1月15日(日)

開館時間:  午前9時30分から午後5時(最終入館は午後4時30分まで)

休館日: 月曜 (9/19、10/10、1/9は開館)、9/20(火)、10/11(火)、12/25(日)-1/2(月)、1/10(火)

 

◆news

「ふたつのフジタ展 相互割引」

府中市美術館(東京・府中)でも「生誕 130 年記念 藤田嗣治展 東と西を結ぶ絵画」を

2016 年 10 月 1 日(土)~12 月 11 日(日)まで開催。

それぞれの展覧会のチケット半券を相手の館で提示すると、団体割引料金が適用。

※他の割引との併用は不可

 

◆参考

0テレ HP「こども展 名画にみるこどもと画家の絆」 第6章
http://www.ntv.co.jp/kodomo/works/6.html (2016/10/01)

2館共同プレスリリース 2016/08/09「二つのフジタ展」
http://kawamura-museum.dic.co.jp/release/pdf/twofujita_press_release.pdf  (2016/10/01)

DIC 川村記念美術館 HP
「開催中の展覧会 レオナール・フジタとモデルたち」
http://kawamura-museum.dic.co.jp/exhibition/index.html (2016/10/01)

東京国立近代美術館 HP
「2015.09.19-12.13  所蔵作品展 MOMAT コレクション特集:藤田嗣治、全所蔵作品展示。MOMAT Collection」
http://www.momat.go.jp/archives/am/exhibition/permanent20150919/index.htm (2016/10/01)

『レオナール・フジタとモデルたち 図録』、株式会社キュレイターズ2016、pp.64-65、pp.84、pp. 143-145、pp.178

bitecho 創造力を社会に生かすアートニュースサイト「藤田嗣治全所蔵作品展が提起した、日本の美術館の可能性」http://bitecho.me/2015/11/30_532.html (2016/10/01)