喜多川歌麿 「当時三美人」 寛政2(1790)-文化元(1804)年 和泉市久保惣記念美術館蔵
展示期間9月8日~10月4日
サブタイトルの「浮いた話のひとつふたつ」。
お江戸の思想を、粋で的確に表現した言葉だなと、美術館を出る際にストンと腹の底に落ちました。
何かと規制が厳しかったように思われている江戸時代ですが、こと恋愛に関しては、
現代に生きる私たちですら??と思ってしまうほど、自由で、少し敬遠してしまう様な”風習”が存在しました。
だからと言って幸せな生涯を終える男女ばかりでは無かったようです。
ここ神戸市立美術博物館では、そんな”浮き(憂き)世”を描いた”浮世絵”に織り込まれた江戸時代の恋愛事情や、
当時美しいとされた美男美女、そして遊女の姿を通して、様々な恋のエピソードを紹介しています。
何だか教科書には載っていない歴史の裏側を知るようで、ワクワクしませんか?
さあ、江戸時代当時の社会を覗いてみましょう!
何だか「教科書には載っていない歴史」の裏側を知るようで…
吹き抜けになった二階の入り口からスタート。館内全体が、写真の様にゆったりとしていて過ごしやすい空間です。
本展示は、主に6つの構造に分かれています。
1. 浮世絵美人画の流れ
鈴木春信 「筒井筒」 江戸時代 和泉市久保惣記念美術館蔵
展示期間10月5日~10月25日
本回は、「多色刷り=錦絵の浮世版画」のみの展示となります。
大正時代の芦屋の商社員 故片岡長四郎が鬼集した片岡家所蔵品も多数展示されています。
8等親の女性を描いた鳥居清長や、大首絵を得意とした喜多川歌麿の時代は、美人画が黄金期でした。
その後、歌川国芳や渓斎英泉といった妖艶な女性画を描く浮世絵師が輩出されます。
それらには、粋で婀娜っぽい江戸時代の町人文化が育んだ、バイタリティー溢れる暮らしぶりが反映されています。
では、当時どのような女性が美人とされていたのでしょうか?
2. 江戸きっての美人
喜多川歌麿 「美人五節の遊」江戸時代 和泉市久保惣記念美術館蔵
展示期間10月5日~10月25日
1686年成立の「好色一代女」には、モテる女性の容姿として、顔が丸く、薄い桜色の肌、
両眉の間がゆったりと開き、口が小さく、耳が長めで、目がバッチリとしている等の要素があげられています。
“目がバッチリ”といった観念は当時と今では大きな開きがあるようで、切れ長の美しい目をしています。
浮世絵は庶民階層から姫君に至るまで幅広い人物が題材とされ、今で言うファッション誌や
アイドルのポスターのような存在でした。どの時代も” 美”に憧れる気持ちは共通していますね。
後に”遊女”以外を描く事を禁止されたので、町人の美人画は貴重な資料となります。
特に庶民を描いた画は、イキイキとしたお江戸の気質や、以下の様な時代の風習が見て取れ、
様々な面白さがあります。
◆雷が鳴ると、蚊帳の中に逃げこんでいた
◆紋日(正月や節句)のお風呂屋さんでの初風呂の際は、客は湯銭として”おひねり”を払っていた
◆婚礼は日が落ちてからのPM6:00からなので、外では必ず火が焚かれていた
◆団扇は蛍取りの際にも使われていた
◆高価な紅を節約するため、唇に”墨”を下地として塗っていた
3. 遊女 ー 商売としての恋と掟
当時の遊女は、和歌、琴、三味線、生花、茶の湯、碁の相手ができ、酒を飲み、良い文字と
文章で手紙を書ける事などが求められました。
今のアイドルの様に人々の羨望の的であった遊女ですが、
花魁ともなれば並大抵の努力と精神力では得られない地位だったと思います。
そんな遊女の元へ通う江戸時代の男性は、既婚未婚に関わらず遊里で妾を持つ事も珍しくなく、
様々な女性と奔放に恋愛をしていた、というから驚きです。
しかし、吉原の中では男は一途でなければならなかったようです…!!!
二度目以降に吉原へ行く際に、相手を変える場合は前の遊女と話し合って手切れ金を渡すという、
正式な段取りが必要となったそうで、、、
あくまでも”遊里でのお遊び”における決まり事だったとは言え、一夫多妻制を連想させるこの決まり事には、
本妻の立場をお察し致します。。
“遊女が誓う恋の誠は多くが方便であるが、恋という名の嘘に誠を示す事が吉原遊びの真髄であった” との事ですので、
このゲームに本気で夢中になっていた多くの男性にもお涙あげましょうか。。笑
4. 悲しき恋の結末
月岡芳年 「新撰東錦絵 生嶋新五郎之話」 明治16(1883)年 片岡家蔵
親の反対、別の縁組み、金銭上の問題や不義理の清算など、恋愛結婚が主流でなかった時代に、
あの世で結ばれようと”心中”する男女が増えたといいます。
それは上写真の様に描かれ、近松門左衛門も浄瑠璃「曾根崎心中」を制作して人気を得るなど、
社会現象までになりました。
そもそも”心中”とは、当時腕に相手の名を彫ることや爪剥がし、小指の指つめ等して、
心の中を証明する事を意味したそうです。
展示会にも、意中の相手の名を彫る女性の苦悩と決意に満ちた表情の画が展示されてありました。
また、特に遊女達は細かい規則、掟などにがんじがらめで、思い慕う男性との恋などもっての外。
まさに”かごの鳥”の様な生活でしたから、心中を果たすこともしばしばあったといいます。
逆境こそが燃え上がる恋の魔法、とでも言うような現象です。
それに比例して生み出される感情は一筋縄ではいかない様ですね。
5. 恋物語と男女の本懐
歌川国芳 「清盛と常盤御前」 弘化元(1844)年頃 片岡家蔵
もちろん悲恋に終わるばかりではなかった江戸時代。
人形浄瑠璃の作品でも、男女の本懐を成し遂げるというサクセスストーリーが上演されました。
描かれる女性像も、恋によって仇討ちや本懐を遂げる、よりアクテビティなものになっており、
喜多川歌麿らが描く可憐で爽やかな女性像から、渓斉英泉らの描く粋で婀娜っぽいものへの変化が見て取れます。
恋をして、そして愛されている女性は、いつの時代もイキイキとして美しいのですね。
でもなぜでしょう、現代でも失恋ソングの方が多く聞かれている様に、
人はどこか”裏”の部分に惹かれ憧れそして落ちてゆく傾向は、人間の性なのかなと感じます。
6. 恋物語の現場
江戸時代の恋物語が生み出された場所とは?
幕府公認の吉原以外に、非公認の岡場所が当時存在し、特に辰巳の方向に位置する深川(東京都江東区)は有名でした。
また東海道五十三次は江戸時代に整備され、道中の宿には、飯盛女と呼ばれる女性が数多く存在しました。
(幕府の規制をすり抜けるために、飯盛女と称した説があります)
そしてこちらの画は、深雪が恋い慕う駒沢を追うために、大井川を渡っているものです。
これが「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と呼ばれる程、二人の間を引き離す役割を負いました。
それでも追う深雪。当時の女性の一途な思いを ”美しいもの” として体現した物なのでしょうか。
便利になった現代には見られない愛の表現方法は、少々大胆で大袈裟に見えるかもしれませんが、
相手を思う神髄は今の私たちと同じですね。
様々な”恋の形”を見てきましたが、最後に拝見した深雪の姿にふと落ち着く自分がいました。
世の中には無限の可能性があるからこそ、たった一つの物がより美しく見えるのであると思います。
それでも理性の効かないのが ”恋” なのでしょうか。
私たち人間の永遠の課題だからこそ、常時注目の的であり、アートとしても取り上げられ、
人々の心を翻弄してゆくのでしょう。
【情報】
「浮世絵恋物語 〜 浮いた話のひとつふたつ」
会場:芦屋市立美術博物館
兵庫県芦屋市伊勢町12-25
会期:2015年8月12日(水)~11月15日(日)
入場料:一般=1,000(800)円 高大生=500円(400)円 中学生以下=無料
高齢者(65歳以上)および障がい者手帳 精神障がい者保健福祉手帳
療育手帳をお持ちの方ならびにその介護の方は核当日料金の半額になりす。
*( )内は20名以上の団体料金
休館日:月曜日(祝日の場合は翌火曜日休館)、
ただし10月5日は月曜日ですが会館いたします。
文・写真 / 川口 可南子