「No Museum, No Life?—これからの美術館事典」は、新しい形の展覧会だった。
AからZまでの36のキーワードに沿って美術館がどのように作品と関わっているのか、
展示空間の背景の疑問を豪華な作品を用いて私たちに解説してくれる。
ダニエル・セ―ヘルス/コルネリス・スフート 「花環の中の聖母子」 油彩・板 国立西洋美術館
実は、私は美術館に行くと作品一つ一つの素晴らしさに魅了されながらも、
実は頭の隅でこっそりそれ以外のことを考えてしまうことがある。
これまでに訪れた展覧会でも、絵の枠外にあるものについつい視線が行ってしまうことが多かった。
「この、壁紙の色いいなぁ。自分の部屋がこんな色だとかわいいなぁ。」や
「この額縁は、絵に対して大きくてユーモラスだなぁ。」など。
はたまた次のように「うーん。この作品にはこの土台も必要だったのかな?なんでだろう。」
なんてことを考えてしまう時も。
例えば、こんな風に。
オーギュスト・ロダン「考える人」1880年 ブロンズ 国立西洋美術館 松方コレクション
展示室ごとに雰囲気の違う展覧会の場合、「おお、この部屋急に暗いな。」とか
「あの部屋だけ明るいけど、どうしてだろう?」といった展示風景に関わることも気になってしまう。
また、作品が展示されるまでの背景に想いを馳せることもある。
「ここに来るまでに沢山の人が関わってきたんだろうな。
大変な作業なんだろうな」「これがパリから運ばれてきたのかぁ。いったいどんな風に旅をしてきたんだろう。」…
こんな風に。
この展覧会では、こうした一つ一つの疑問の答えを知る楽しさを味わいながら、
これまで思いもよらなかった視点も得ることができる。
わくわくしながら、1つ1つのアルファベットにまつわる解説を読み、
作品を鑑賞していった。
特に、美術に携わる仕事に就きたい人にとって、とても勉強になるコンセプトなのだろう。
これらの美術館の裏側にいる人々の多さ、その専門性の高さ、クリエイティブな面が強く感じられる。
制作資料の展示が多いのも魅力的だ。
中でも「E」-「Exhibition:展示」の解説に感じたことがとても大きかった。
それは、「同じ作品であっても作品の置かれる場所によって、私達に伝わってくるものが変化するということ、
そしてそれが美術館のもつ大きな性質だ」ということだ。
この性質は、人と人のコミュニケーションにも同じことが言えると思う。
一つの内容を伝えるとしても、誰が言うか、どこで言うか、どんな言い方で言うか、どのタイミングで言うか…
これらを「文脈」と言い、文脈によって相手に伝わる物語が変化する。
アートもそれと同様に作品をとりまく文脈がとても重要なのだ、と…
美術館という場所では、展覧会のテーマによって作品は配列され、私達に物語を届けてくれる。
そのために考え抜かれた配置や、照明が用いられる。これも一つの文脈作りだと言えると思う。
美術館に携わる人々はそうした文脈作りを一つ一つの展覧会に行っているのだ。
「L」-「Lights:光」の解説では、印象派の作品におけるライティングの重要さ、
画家たちが表現をしたかったことがより表現されながら、
作品にダメージを与えない照明の強さが緻密に計算されていることがわかった。
クロード・モネ「ウォータルー橋、ロンドン」1902年 油彩・キャンバス 国立西洋美術館 松方コレクション
次に展示されていた次の2つの作品は、どこから観賞するかでその印象が大きく変化していた。
一番目の写真の奥に見える『考える人』は、
作品そのものよりもこれからみる先の物語を垣間見てしまったような可笑しさが前面にふくまれている。
その次の『I am here』という作品。お互いが覗き込む形で見える相手の眼。
この作品を単純に正面から単体で見るよりも、こうして壁の穴を通して2人だけの空間で見る方が、
その眼差しの存在感が圧倒的に際立つ。
オーギュスト・ロダン「考える人」1880年 ブロンズ 国立西洋美術館 松方コレクション
スン・ユエン&ポン・ユー「I am here」2007年 ミクストメディア 国立国際美術館
そして「B」-「Beholder:観者」、「Y」-「You:あなた」でしるされているように私達、
観客さえももしかしたら、その物語を作っているのかもしれない。
沢山の人がいる中なのか反対にひっそり一人で観賞するのか、その時は写真を撮りながら、
あるいは、メモをしながら、それとも誰かと一緒に感想を言い合いながら、
はたまたそこは偶然入った場所なのか、遠くから作品を目指してきたのか…
トーマス・シュトゥルート「ルーブル美術館4、パリ1989」1989年 タイプCプリント 京都国立近代美術館
この展覧会を鑑賞しながら、子供の頃の出来事を思った。
幼い日に老人ホームで見たゴッホの「ひまわり」のレプリカが記憶に強く残っているということを。
なぜ、そのことをよく覚えているのか…
きっと、力強く明るい黄色があまりにもその場の雰囲気と合わず、異彩を放っていたからだろう。
あの絵が、老人ホームではなく違う場所(例えば図書館とかどこかのホールとか)に飾られていたとしても、
そこまで目を引かなかっただろう。
それに、私が今のような大人ではなく、不安感を抱えた子どもだったから更に強く感じたのかもしれない。
そういうことは、美術館の中でも実は起こっていた。
そのことに気付いて展覧会の終盤にさしかかった時、
作品に対しても「ああ、生きているんだな」ということを、しみじみ感じてしまった。
「S」-「Storage:収蔵庫」で保管されて眠っていた作品たち、とある美術館で展示されていた作品たちが、
「W」―「Wrap:梱包」をされ、別の展覧会へと長い旅をする。
傷つかないように丁寧に、大切に。そして、美術館の人々によって作り上げられた物語の登場人物として息づく。
もちろん、ここが終わってもまた新たな展覧会へと旅立っていくのだ。
そしてそこではまた違う物語の中を生きていく。何て素敵なことだろう。
会場:東京国立近代美術館 企画展ギャラリー
会期:2015年6月16日 – 2015年9月13日
開館時間:10:00-17:00 (金曜日は10:00-20:00)※入館は閉館30分前まで
休館日:月曜日(ただし7 月20 日は開館)、7月21日(火)
観覧料:一般1000円、大学生500円
文:Yoshiko 写真:洲本マサミ