激動の時代を絵筆と共に生き抜いた画家 藤田嗣治(レオナール・フジタ)
藤田嗣治(レオナール・フジタ、1886-1968)がフランスの地に永眠して半世紀が経ちます。みなさんは藤田についてどのような印象をお持ちでしょうか?
明治半ばに東京に生まれた画家ですが、その洗練された画風や洒落た風貌から、今なお色褪せないセンスを感じている方も多いと思います。
2018年は藤田の没後50年の節目にあたり、フランスや日本で回顧展が開かれるなど改めて注目を浴びています。エコール・ド・パリの寵児となった後、激動の時代を絵筆と共に生き抜いた画家。彼の波乱に満ちた人生を知ったうえで作品を鑑賞すれば、魅力溢れる新しい藤田像が立ち上がってくることでしょう。
藤田嗣治《自画像》1929年 油彩・カンヴァス 東京国立近代美術館蔵 © Foundation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833
舞台は1920年代、狂乱のパリ。無名の日本人留学生が一躍時代の寵児へ躍り出た!
中学時代から画家を志しパリを夢見た藤田は、夜学でフランス語を勉強し、東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学します。そして1913年、父親からの資金提供を受け、26歳で単身フランス・パリへ旅立ちました。
当時、世界中から若手の画家たちが集まっていたパリ。藤田もその仲間入りをするべくセーヌ川左岸のモンパルナスに居を構え、交友関係を広げていきます。パブロ・ピカソ(1881-1973)やディエゴ・リベラ(1886-1957)などの前衛芸術の画家に出会い大きな衝撃をうけ、藤田は日本で受けた美術教育とは異なる独自の芸術を模索し始めます。
そんな矢先、第一次世界大戦が勃発。藤田は決死の覚悟でフランスに残るも、戦争は長期化し、生活は困窮します。
藤田嗣治 《二人の少女》 1918年 油彩・カンヴァス プティ・パレ美術館(スイス・ジュネーヴ)蔵 © Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833
藤田嗣治 《エミリー・クレイン=シャドボーンの肖像》 1922年 油彩、銀箔、金粉・カヴァス シカゴ美術館(アメリカ)蔵 © The Art Institute of Chicago / Art Resource, NY © Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833
転機が訪れたのは1917年。フランス人画家のフェルナンド・バレー(1893-1974)との結婚がきっかけで、パリ美術界での人脈が大きく広がります。同年6月には初めての個展を開催し好評を得ました。
1919年秋にはサロン・ドートンヌに初入選を果たし、22年には初のアジア系審査員になります。藤田の描く「乳白色」を用いた静物画や裸婦像は、大変評判となり注文が殺到します。こうして無名の私費留学生だった藤田は、一躍脚光を浴びエコール・ド・パリの寵児となりました。
そして1929年9月、42歳の藤田は日本に16年ぶりに凱旋します。わずか3ヶ月ほどの一時帰国でしたが、個展や出版を精力的にこなし「パリの藤田嗣治」のイメージを日本に浸透させました。
藤田嗣治 《タピスリーの裸婦》 1923年 油彩・カンヴァス 京都国立近代美術館蔵 © Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833
藤田を知るキーワード①独自に考案した新しい色彩「乳白色」
ミルクのように優しく、奥行を感じさせる柔らかな色彩。「乳白色」は1920年代初めに生み出した下地の色です。独創的なこの色彩は、背景だけでなく静物画や自画像に使われ、1923年ごろからは裸婦の肌の表現へと集約されていきます。当時、藤田はリュシー・バドゥーというモデルを得て頻繁に描いています。彼女は肌が雪のように白く「ユキ」という愛称を贈り、その美しい肌を「乳白色」で神秘的に表現しました。
ところで「乳白色」は一体どのように生み出されたのでしょうか?
近年の研究から、組成は、シルバーホワイト(鉛白)と炭酸カルシウムの化合物にメディウム(媒剤)をまぜてつくったものとわかっています。また、化粧品やベビーパウダーなどに含まれる物質、タルク(滑石粉)がその技法を支えていたことも判明しました。タルクは、油性地でも墨で滑らかに線描できるという特徴があり、藤田はこれを補助的画材として使っていたと考えられます。
藤田を知るキーワード②誰にも秘密!驚くべき東西融合の絵画技法
「乳白色」を得た藤田は、それを誇張する絵画技法を考案しました。用いられたのは「墨」と「面相筆」。面送筆は日本画で輪郭線をひく際に用いられる穂先の細長い筆です。日本では馴染みのある画具ですが、これらを油彩画に用いるなど誰も考えませんでした。しかし、藤田は「乳白色」の特性を生かし、油性の下地に水性の墨で描くことに成功したのです。柔らかな白地にひかれた細く繊細な輪郭線は、パリで高く評価され、異邦人である藤田はその存在感をぞんぶんに示しました。
「乳白色」「墨」「面相筆」によるこの絵画技法は、東西の融合とも呼べる驚きの方法でした。藤田はこの技法を秘密にして、当時のアトリエには同業者を入れたがらなかったそうです。
藤田嗣治 《自画像》 1929年 油彩・カンヴァス 東京国立近代美術館蔵 © Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833
1930年代 パリを離れて多文化に触れる、北米・中南米・アジアを彷徨する「旅絵師」の2年間
《広いようで狭いのは世の中だが、実際歩いてみると地球はやっぱり大きい気がするのである。私は死ぬまで旅行者でをはろう》(「日本の旅・世界の旅」1938年 『随筆集 地を泳ぐ』所収)
一時帰国した日本からパリに戻ってからの約2年の間、藤田は常に旅をしていました。 前半にはブラジルやメキシコ、キューバなど中南米諸国へ、また半ばには東京を拠点に国内やアジアへの旅を繰り返します。
1931年秋、パリでのユキとの生活を放棄した藤田は、新しい恋人であるダンサーのマドレーヌ・ルクーを連れて中南米へ旅立ちます。(マドレーヌは赤毛でスレンダーなスタイルで、藤田の専属モデルとして数多くの作品に描かれています。)各地で制作し、それを売却して旅費を稼ぐいわば「旅絵師」でした。
旅の間に、異文化に触発された藤田の画風は大きく変化しています。パリでの「乳白色」とは対照的に、濃厚で派手な色彩が印象的です。また、現地の人々をモデルに緻密な水彩画も多く描いており、異国の人々に対する愛情が深かったことも伺えます。
藤田嗣治 《争闘(猫)》 1940年 油彩・カンヴァス 東京国立近代美術館蔵 © Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833
頭を丸刈りにして作戦記録画制作にのめりこむ。《アッツ島玉砕》に込められたメッセージとは
1939年、第二次世界大戦が始まり、日本へ帰国した藤田はトレードマークのおかっぱ頭を丸刈りにし、戦線取材や「作戦記録画」の制作に没頭します。
「作戦記録画」とは、第二次世界大戦中、戦意高揚と戦争の記録を残す目的で、戦争を題材として写実的に描かれた絵画のこと。「戦争画」、または「戦争記録画」ともいいます。当時はカラー写真がなかったため、大画面の記録画はそのまま現実を写し取ったもののように人々の目に映り、戦意を煽りました。
中村研一、宮本三郎をはじめ、藤島武二、小磯良平など多くの画家が戦線を取材し日本軍のために多くの作戦記録画を描きました。藤田は作戦記録画制作にのめりこみ精力的に作製を続け、この分野で画壇を主導するまでになります。
藤田を知るキーワード③《アッツ島玉砕》1943 東京国立美術館蔵
~戦意高揚から「英霊鎮魂」へ~
1943年5月29日、北太平洋アリューシャン列島アッツ島で日米の大規模な戦闘の果て、日本軍の守備隊が全滅しました。藤田が描いたのは、敵も味方も判らないほどに絡み合い、殺しあう肉弾戦の様子。茶褐色で画面いっぱいに描かれた兵士たちは大きな塊となって観るものを圧倒します。背景には雪を頂いた孤島の山々が連なっています。
《アッツ島玉砕》は200号の大作ですが、異例のスピードで制作され、早くも同年9月の「国民総力決戦美術展」に出品されます。
実は、この作品は軍からの委託ではなく、写真と想像をもとに藤田自らの意思で描いたものです。普通は軍部が記録すべき作戦を選んで各作家に委託するため、公開には軍部が難色を示したと伝えられています。
しかし、この絵は当時の日本人の心理を捉えました。描かれているのは、自分の息子、夫、兄弟かもしれない・・・。徴兵されていった家族、親戚の姿が重なり鬱積していた悲しみや苦しみが溢れたのでしょう。この絵が各地を巡回すると、手を合わせて祷りをささげ、賽銭を投げる観客がいたといいます。
戦後73年を迎えた今年、終戦記念日をはさむ会期で東京・上野の東京都美術館で大回顧展が開かれましたが、藤田渾身の作戦記録画を前に、鑑賞者は何を感じるのでしょうか。この後、藤田はいくつもの玉砕図を描き、次第に芸術的な戦争表現を求めていきます。
『没後50年 藤田嗣治展』 東京都美術館 展示風景
日本画壇最大の事件。藤田の戦犯容疑と日本脱出、その真実とは?
~「美校クーデター」戦後を見越した大改革人事~
1944年、学徒動員も始まり、画家たちも作戦記録画の制作に駆り出され、戦時体制はいっそう厳しくなっていきました。
そんな折、東京美術学校(現・東京藝術大学)で大規模な人事異動があり、画家たちは動揺します。藤田と親しかった西洋画科の小林萬吾、田辺至など作戦記録画で活躍する教授陣たちが排除され、その後任に戦争記録画に関わらなかった、日本画の小林古径、洋画の安井曾太郎、梅原龍三郎という、いずれも美校出身でない画科たちが起用されたのです。同様の人選が帝室技芸員(宮内省の顕彰制度)でも行われました。
戦争のための作戦記録画に協力した画家が排除されるという、時代に逆行するような人事がなぜ起きたのでしょうか。
当時、すでに敗戦の影が見え始め、統率力のなくなった軍部は美術界に台頭使用としている新しい勢力を抑えることができなくなっていました。もし戦争に負け、戦争遂行者が断罪される時代になれば、戦争画を描かなかったことは名誉になります。 この事件は、藤田自身に直接に人事的影響をもった事件ではありませんでしたが、作戦記録画を描いた藤田はクーデター後の画壇からはっきりと排除されることになりました。
クーデターを後押ししたのは、宮内省官僚の細川護立、美術史家の児島喜久雄、日本美術院の横山大観といわれています。戦後の日本画壇の体制は、この美校クーデターから始まったといえます。
『何うか先生皆んなに代わって一人でその罪を引き受けてください。』
1946年1月、GHQによる軍国主義者の公職追放で個人審査が始まりました。実際のところGHQがいわゆる「戦犯画家」のリストの制作を指示したことも、求めたこともありませんでした。無論、当局により藤田が追及されることは全くありませんでした。
それにもかかわらず、「戦犯画家として藤田がひとり責任を負い、日本を去った」という通説が信じられています。藤田を日本画壇から排除しようとした動きとは何だったのでしょう。
日本美術会・書記長の内田巌が藤田宅を訪問し、戦犯通告をしたといいます。内田は藤田がパリで面倒を見たこともある後輩で、疎開先で生活をともにした同志でした。そんな可愛がっていた後輩に戦犯の責任負うように告げられ、さぞ辛かったことでしょう。
しかし、藤田は話を聞いた後、自ら自転車で鮪を買いに行って、酒までを出して内田を歓迎したといいます。後輩の苦しい立場を察した藤田の人好きで優しい性格が滲み出るようなエピソードです。
内田の訪問について、藤田は後年このように語っています。
「私は内田にこう言った。・・・私が戦犯と極まれば私は服しましょう。死も恐れませんが出来れば太平洋の孤島に流してもらって紙と鉛筆だけ恵んで貰えれば幸です。答えて後は一切その話は打ち切って小竹町から駅迄自転車で出かけて何か買って内田にだけ、私は酒は一口呑まないからってすすめて話がいろいろはずんで来た。 何んな事があっても私は先生を見捨てたり致しません。必ず私一人丈でお世話をいたします。何うか先生皆んなに代わって一人でその罪を引き受けてください。酒が入って内田は直ぐに泣く、涙もろい人だった。」(夏堀全弘著『藤田嗣治芸術試論』より)
戦後、藤田が美術界で再び大きな力を持つのではないかと恐れ、その復活を阻もうとし画壇の一部と、それを煽り藤田を「戦犯者」のように取り上げたマスコミが作り出した風潮、というのがこの事件の真実のようです。藤田は四面楚歌となり、日本を捨てパリへ復帰する準備を始めます。
『没後50年 藤田嗣治展』 東京都美術館 展示風景
藤田嗣治 《フルール河岸 ノートル=ダム大聖堂》 1950年 油彩・カンヴァス ポンピドゥー・センター(フランス・パリ)蔵 © Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833
1949年日本を脱出。ニューヨークを経て再びパリへ
終戦後、フランスへのビザの申請はなかなか認められず、藤田は困惑しました。それを救ったのはGHQの芸術担当フランク・シャーマン(1917-1991)です。彼は「パリの藤田」に高い敬意を抱いており、藤田の辛い心境に寄り添い、アメリカへのビザを取得するために力を尽くしました。1949年3月10日、ついに藤田は単身ニューヨークへ向かいます。
「絵描きは絵だけを描いてください。仲間喧嘩はしないでください。日本の画壇は早く世界水準になってください」
藤田は記者会見でそう言い残し、羽田から空路、西洋社会へと戻り、その後二度と日本の地を踏むことはありませんでした。
ニューヨークに滞在した10ヶ月は藤田にとって刺激に溢れ制作意欲は大いに高揚しました。この頃のニューヨークは、パリに変わる新たな芸術の中心地。抽象表現主義などの前衛美術が胎動する中、藤田は個展を開き精力的に活動します。そして1950年1月、ようやくフランス行きのビザの申請が認められ、念願のパリへと渡ります。
『没後50年 藤田嗣治展』 東京都美術館 展示風景
藤田嗣治 《カフェ》 1949年 油彩・カンヴァス ポンピドゥー・センター(フランス・パリ)蔵 Photo © Musée La Piscine (Roubaix), Dist. RMN-Grand Palais / Arnaud Loubry / distributed by AMF © Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833
国籍と「嗣治」を捨てカトリックへ改宗
パリの美術界はアンフォルメルなどの抽象絵画を中心とした新しい動きのなかにありました。藤田がかつて過ごしたエコール・ド・パリの華やかな時代は見る影もなく、彼の絵画はすでに過去のものとなっていました。第二次世界大戦の傷跡が生々しく残されたパリで、藤田は孤独と疎外感に苛まれながらも熱心に制作を続けました。
1955年、68歳の藤田は夫婦でフランス国籍を取得し、1959年にはランス大聖堂でカトリックの洗礼を受けます。洗礼名は、敬愛するルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチに習い「レオナール」。以後の作品のサインは「L.Fujita」「Léonard Fujita」と変わります。洗礼後は、キリスト教をテーマにした絵画を多く手がけています。
藤田嗣治 《礼拝》 1962-63年 油彩・カンヴァス パリ市立近代美術館(フランス)蔵 © Musée d’ Art Moderne / Roger-Viollet © Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833
藤田を知るキーワード④ノートル=ダム・ド・ラ・ぺ(平和の聖母)礼拝堂
~終の住処に残した敬虔な信仰心~
1961年、パリを離れて郊外のヴィリエ=ル=バルクという小さな村へ移り住みます。このとき藤田は75歳ですが、制作意欲は衰えず、終の棲家となるアトリエ兼住居は彼の絵画や、陶芸や工芸品、マケット(模型)などで溢れていました。
フランス北東部の都市ランスのノートル=ダム・ド・ラ・ぺ(平和の聖母)礼拝堂は、藤田が設計からレリーフ、壁画、ステンドグランスを手がけた美しい建築物です。
藤田は晩年、この礼拝堂を新設する大仕事に熱心に取り組みました。壁画制作のために、新たにフレスコ画の技法を習得し、約3ヶ月間をかけてたった一人で描ききりました。1968年1月29日に81歳で亡くなった藤田は、この礼拝堂の祭壇の下に眠っています。
近年、日記や手紙などの資料の整理公開も進み、画家の新たな理解につながっています。そして、現在、東京都美術館にて、決定版ともいえる大規模な展覧会「没後50年 藤田嗣治展」が開催中です。彼が私たち日本人へ向けたメッセージを考えながら、鑑賞してみてはいかがでしょうか。
【展覧会概要】
展覧会名:「没後50年 藤田嗣治展」
会期:2018年7月31日(火)~10月8日(月・祝)
会場:東京都美術館
住所:東京都台東区上野公園8-36
開室時間:9時30分~17時30分
会期中の金曜日は20時まで、8月24日、31日は21時で開室。入室は開室の
30分前まで。
休室日:月曜日、9月18日(火)、25日(火)
ただし、9月17日(月)、9月24日(月・祝)、10月1日(月)、8日(月・祝)は開室
料金:一般1600円、大学生・専門学校生1300円、高校生800円、65歳以上1000円
中学生以下は無料
公式ホームページ:http://foujita2018.jp
テキスト・五十嵐絵里子
写真・鈴木佳恵
主な参考文献
藤田嗣治『腕一本』東邦美術教会 1936〔復刊:講談社 1984〕
藤田嗣治『随筆集 地を泳ぐ』書物展望社 1942〔復刊:講談社 1984〕
林洋子監修『藤田嗣治画集 1886-1968』全3巻 2014
林洋子『藤田嗣治 手紙の森へ』集英社 2018
夏堀全弘『藤田嗣治芸術試論』三好企画 2004
富田芳和『なぜ日本はフジタを捨てたのか? 藤田嗣治とフランク・シャーマン 1945~1949』静人舎 2018
東京都美術館・東京国立近代美術館『没後50年 藤田嗣治展』図録 2018
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