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今、キース・ヘリングが生きていたら…  中村キース・ヘリング美術館開館10周年記念展キース・ヘリングと日本:Pop to Neo-Japanism 特集

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2017年5月24日


今、キース・ヘリングが生きていたら…  中村キース・ヘリング美術館開館10周年記念展キー


今、キース・ヘリングが生きていたら…
中村キース・ヘリング美術館開館10周年記念展キース・ヘリングと日本:Pop to Neo-Japanism 特集

 

 

 

 

山梨県、八ヶ岳の裾下に建立する中村キース・ヘリング美術館。館長の中村和男氏が80年代後半から蒐集したキース・ヘリング作品が約200点収蔵されている、世界でもとても珍しい美術館です

 

2007年に開館され、2017年で10周年を迎えました。

 

現在、美術館では10周年記念展として「キース・ヘリングと日本:Pop to Neo-Japnism」が開催されています。
会場内には、キース・ヘリングがこれまで4度来日し残していった貴重な作品や写真が今回のみ特別展示されていて、いかに彼が日本を愛し愛されていたかがわかります。

 

また4月8日には生前のキース・へリングに密着取材をしていた美術評論家の村田真氏と、編集者の藤原えりみ氏によるトークイベントも行われました。

 

今回は館内の様子とトークショーの内容をご紹介し、キース・ヘリングが日本に残した痕跡と彼の知られざる人間像に迫っていきたいと思います。

 

彼の活動とともに振り返る、80年代以降のアートと日本.
美術評論家・村田真氏と編集者・藤原えりみ氏のトークセッション

 

 

左:藤原えりみ氏 右:村田真氏  All Keith Haring Works ©︎ Keith Haring Foundation

 

アートが散りばめられた80年代  キース・ヘリングとの出会い

 

藤原えりみ(以下、藤):一番最初にキースと出会ったのは、いつくらいだったのでしょうか?
村田真(以下、村):NYで出会ったのは82年です。

 

藤:本当に早い段階ですよね、キースがアートシーンにデビューして1年くらいでしょうか。
村 :そうですね。ただ、82年に僕はヨーロッパに行って、ヴェネチアビエンナーレ、ドクメンタとパリビエンナーレと、3つの国際展を見に行ったのですが、既にドクメンタでキース・へリングが出展していたんです。そこではじめて、キースの作品に出会いました。

 

藤:それはペインティング?
村:ペインティングと、壷に絵を描いていて…。それは今でも覚えていますね。

 

藤:ドクメンタ全体の中で、キースの作品はかなりインパクトがあったんじゃないですか?
村:82年のドクメンタっていうのは、新表現主義だったんですね。それと同時に60年代から活動している作
家も出てきている内容で。だからコンセプチュアルもあり、新表現主義もあり。ヨーゼフ・ボイスの作品もあったりしました。

 

藤:すごいですね。20世紀のアートがモザイクみたいに散りばめられているような年だったのですね。
村:そうですね。だからモダニズムの終わりとポストモダニズムのはじまりが一緒になっている、という感じでしたね。
そんな中でなぜキース・ヘリングを覚えているかというと、ドクメンタ出展者の中で2番目に若かったからなんです。一番若かったのは、ジャン・ミシェル・バスキア。そのとき、バスキアは22歳でした。キースは23歳でした。20代前半という若さで世界的なアート展に出しているっていう。作品のインパクトももちろんありましたけど、それで僕は覚えていました。

 

All Keith Haring Works ©︎ Keith Haring Foundation

 

で、その年の暮れに、ぴあの仕事で『カレンダー』という月刊誌を出すことになって、僕は異動になりました。その表紙と特集をキース・ヘリングにしようと2、3日で決まり、「行ってこい!」ってアメリカに飛ばされました。12月の29か30に日本を出発して1週間滞在という日程で。おそらく、12月の30日か31日に初めてキース・ヘリングに会ったんだと思います。

 

藤:そのときは、ギャラリーを通してコンタクトを取られたという感じですか?
村:いや通してなかったですね。アメリカにぴあの特派員がいたんです。その人を通して連絡を取りました。

 

藤:作品には以前から触れていたと思いますが、ご本人と会われて第一印象はどうでしたか?
村:細長いひとだなーって。(笑)  背が高くて痩せてて、ひょろーんとしていました。
NYに着いた翌日からキース・へリングに密着していました。まずアトリエに行って取材して、彼が出かけるときは一緒に出て行ってずっと追跡していて。そこで地下鉄に乗るのですが、足が速いんですよ。背が高いし、足の長さが全然違うので、とにかく付いて行きました。
そこで、少しでも黒いスペースを見つけると、チョークを出してサササって描いていったんです。

 

《サブウェイ・ドローイング》1981–1983年 白壁/紙/板 123.5×127.7㎝  © Keith Haring Foundation

 

藤:え!じゃあ現場でサブウェイ・ドローイングを体験したのですね!
村:そう、何枚も描いて。とにかく速い速い。結構ちゃんとした、複雑な構図の絵でも2,3分でささーっと、きょろきょろ周りを見ながら描いていくんです、これは “芸だな” って思いました。
で、描き終えたら走ってすぐ逃げるんですよ。それを写真に撮って。また地下鉄に乗って、別の駅に行ってはまた探すんです。ここ「空いてる空いてる!」って。それをずーっと繰り返していくんです。
それはまぁ面白いといえば面白かったけど…今考えたらいい体験でしたね。

 

藤:それはすごい貴重な経験ですよね。まさに目の前で外の空間で制作するキースに出会えるなんて。滅多にあることではないですよね。アトリエの中だと、他者が入ってくると作家にとっては時に厄介だったりもすると思うので。
村:そうですね。たまに街行く人が話しかけてきたり。

 

藤:乗客の人たちはキースのことは知っていたのですか?
村:大体そうですね。当時の地下鉄では(アーティストが壁にペイントするのは)普通の風景でしたから。
だから敵視する人はいないんですよ、お巡りさんくらいで。(笑) 普通の人が「いいの書けてるな。」って話しかけてきたりすると、キースがバッジをポケットから出してきてその人たちに配っていくんですよ。それを見て、「これが、僕の知らなかったアートなんだな。」って思いましたね。
こういうアート、ありなんだなって。

 

 

All Keith Haring Works ©︎ Keith Haring Foundation

 

藤:その時はクラブとか行ったのですか?
村:ギャラリー行った帰りにクラブ…行ったかなぁ。行ったような気もするけど、あまり覚えてないですね。
いくつか一緒にギャラリーへは行ったけど。ファンギャラリーっていうギャラリーで、ジャン・ミシェル・バスキアに会ったのは覚えていますね。

 

藤:それはすごいですね!
村:英語が全然通じなくて、何言ってるかわからなかったんですけど。 一生懸命話してくれるんだけど、「キレイダ キレイダ!」ってずっと言っていて。(笑)  あとで聞き直したら、「アキラ・イケダギャラリーで、今度展覧会をやるんだ。」ってことを一生懸命伝えようとしてたみたい。

 

藤:バスキアはどんな雰囲気の人でしたか?
村:カッコよかったです、彼は。

 

藤:彼自身が出演している映画がありますが(『バスキアのすべて』監督:タムラ・デイヴィス 2010年)背が高くて本当にかっこいいですよね。ロングコートが似合っていて。
村:そうですね。シュナーベルが監督している映画(『バスキア』)だと役者がバスキアを演じているけど、あの俳優より本物は遥かにカッコよかったですね。で、白人の女の子を連れているんですよ。

 

藤:アキラ・イケダギャラリーはもちろん今もありますけど、当時は京橋にあった頃ですよね?
それこそジュリアン・シュナーベルのお皿のペインティングとか展示したり。今でも覚えてますけど、シュナーベルの作品があまりに大きすぎて、斜めに立てかけられた展示になっていたんですよね。こんな状態で見るの初めて!って思ったのを覚えています。

 

All Keith Haring Works ©︎ Keith Haring Foundation

 

それくらい、やっぱりキースも含めて彼らの作品って大きいのですよね。実際のスケール感を体験しないと、印象が全然違ってしまうんですよ。だから80年代って、タッチは全然違うけれど19世紀頃の絵画サイズに戻っていった時代でしたよね。

 

キース・ヘリングと日本.   80年代、世界にとって憧れの東京

 

藤:キースが日本に来た時も取材されたのですか?
村:日本では会ってはいますけど、完全にワタリさん(ワタリウム)の所での制作が忙しそうでしたからね。

 

《ワタリウム壁画制作写真》壁画制作記録写真 1983年東京神宮前 川島義都   © Keith Haring Foundation
1983年、外苑前にある現ワタリウム美術館前の建物に壁画制作をしたキース・ヘリング。壁画は今も残っている。

 

藤:今のワタリウム美術館ですよね。当時、キースのウォールペインティングを仕掛けられた。
そうすると当時はあまり国内で取材できる感じではなかったのですか?
村:そうですね。ちゃんと取材申請をすれば、もちろんやらせてくれたでしょうけど。

 

藤:80年代、キースは何回くらい日本に来たんでしょうか?
中村キース・ヘリング美術館 美術館 顧問  梁瀬氏(以下、梁):4回ですね。

 

藤:4回だけの割には日本に色んな蓄積を残していますよね。館内にも当時のポスターが展示されていますけど、広島まで行ったりとか、パルテノン多摩もそうだし。

 

 

ポスター《広島 -平和がいいに決まっている!》1988年   All Keith Haring Works ©︎ Keith Haring Foundation
1978ー1988年、”核廃絶と平和維持” をテーマに広島で行われたチャリティイベント。ポスターをキース・ヘリングが書き下ろした。

 

《マイ・タウン(1-4)》1987年、《平和Ⅰ-Ⅳ》1987年
公益財団法人多摩市文化振輿財団収蔵  All Keith Haring Works ©︎ Keith Haring Foundation
1987年、パルテノン多摩でキース・ヘリングが子供達と壁画制作をした、ワークショップでの作品。
今回、開館10年を記念して館内で特別公開されている。

 

当時、パルテノン多摩でのワークショップの様子。キースと子供たち。(館内展示写真) ©︎ Keith Haring Foundation

 

壁画に囲まれながらトークイベントは行われた。All Keith Haring Works ©︎ Keith Haring Foundation

 

梁:日本について、キースは何か言ってたりしましたか?
村:ほとんど聞かなかったですね。ワタリさんのもとで制作するっていうことは既に決まってたし、本人も言ってましたけど。

 

藤:そう考えると、ワタリさんは本当に早くからキースに注目されていたんですね。
村:ワタリさんは早いですよ。

 

藤:80年代って、日本がバブル期というのもあってかアートの情報が同時代的にどんどん入ってきましたよね。
さっきのシュナーベルのお皿ペインティングとかバスキアの作品もそうですけど日本に作品がよく来ていて、本当にリアルタイムで情報が入ってくるし作品も見られるという。今から思えば、少し不思議な時代だったかもしれないですね。
村:当時は、YMO の活躍なんかもあって、東京がファッショナブルな存在だったかもしれないですね。海外からも憧れの都市というか。欧米から見ても日本は変わった国だった。経済的にも非常に豊かで、どんどん現代建築が建っていったりして…。

 

藤:当時、海外の建築家は自分の国だとほとんど建てられる機会がないけど、東京なら建てられるって言ってましたよね。だからインテリアデザイナーや建築家の方は、すごく流動的だった気がする。都心部に空いてるスペースがいっぱいあったんですよ。いずれ取り壊すだろうけど、今は空いているから好きに使っていいよ、みたいな。そこにハイネケンなどが協賛する形で展覧会を仕掛け、飲み物を提供してくれるだとか。

 

All Keith Haring Works ©︎ Keith Haring Foundation

 

そういうことが本当に同時多発的にあっちこっちで起きていて。また、そのスペースが移動したりもするんです。それまでの美術館とか商業ギャラリーとは違う形で。
当時、インターネットもスマートフォンもないですから情報入手にあくせくしたわけですが、多分、…口づてですよね。ワイワイ人が集まっては色んなジャンルの人たちが交流を持てる場があったりして、色んな試みがありました。

 

 

村:そういう都市の隙間にアートが入り込んでいくという意味では、キース・ヘリングがやりたかったことと、バブル時代に東京のプロデューサーたちがやろうとしたことは、近いかもしれない。
それは結構、90年代に入る頃の街づくりに通じていて。パブリックアートという概念とか、今の地域づくりなどに繋がっているのかもしれないですね。

 

パブリックアートの浸透.  アクティビストとしてのキース・ヘリング

 

藤:パブリックアートが定着していくのは、90年代以降でしょうか?
北川フラムさんが仕掛けたファーレ立川(※)を出発点にして。それまではパブリックアートという言葉も考え方もなかったですよね。
(※)1994年、JR立川駅北口の米軍基地跡地の再開発事業によって完成したエリア。アートが一体化した街づくりが執行された。 http://www.tachikawa-chiikibunka.or.jp/faretart/

村:そうですね。それまでは野外彫刻でした。

 

藤:野外彫刻というのは戦後にすごく盛んになったもので、有名なのは野外彫刻展ですよね。
80年代にはパブリックアートという概念はまだなかったですよね。もちろん、具体美術の人たちは相当早い段階から実験的に、勝手に外に出て勝手なことをやる、という活動をしてはいましたけど。
それが社会に認識されて受け入れられていく、というにはまだまだ時間が足りなかったですよね。
村:野外彫刻なんかはアトリエで作ったものをただ屋外に置いただけでしたから、パブリックっていう意識はなかったですよね。

 

All Keith Haring Works ©︎ Keith Haring Foundation

 

藤:そうですね。あと場所の意味性とも関係ないですものね。
村:ファーレ立川を作ったのは北川フラムさんですが、彼が参考にしたのは、ドイツのミュンスター彫刻プロジェクト。77年から始まった、10年に一度あるパブリックアートの祭典で、丁度今年は開催される年に当たります。北川さんはミュンスター彫刻プロジェクトを見たのがきっかけで、ファーレ立川の構想が浮かんだそうですが、その中でも、キース・ヘリングの、草むらに横たわった彫刻作品が印象的だったと北川さんはよく話されています。

 

藤:ファーレ立川に行かれたことある人は、会場にいらっしゃいますか?
行ってみるとわかるのですが、ただ単にアトリエで作ったものを置いているのではなく、場所に合わせて作品が作られていますし、ボランティアスタッフによって鑑賞ツアーが立てられたりメンテナンスもされたりして、地元の人が団結して外からの人の受け皿にもなっているんですよね。
当初は悪意あるイタズラで作品が壊されたりもしたみたいですけど、今はそんなことはありません。
地元の人たちが外からの人を受け入れるという芸術祭の形は今でこそ定着していますが、このファーレ立川からですよね。歩いてるだけじゃ展示作品の事も分かりづらいけど、ツアーしてくれると理解も深まりますしかもツアーにもいろんなコースがあって、短時間コースとか選べるようになっているみたいです。

 

はじめは地元の人も違和感があったと思うのですが、時間とともに浸透していく様子は、今の越後妻有トリエンナーレにつながりますよね。また、ベネッセの家プロジェクトとか。最初はよくわからなかったものが、10年続けることで受け入れられていうという、すごくいい形で展開していくんだなぁって感じます。

 

村:北川さんは未だに、ファーレ立川のツアーに参加しているんじゃないかな。説明会を何100回やったって言ってました。それだけやらないと、定着しないってことですよね。

 

藤:大地の芸術祭や家プロジェクトでも当初は、地元の人たちは手伝いはするけど、作品の情報を共有しようとしないんですって。だから主催者側が雇った人が作品の案内をしていましたが、今では地元の人が進んで作品の説明をされたりしますからね。

 

その変化のきっかけは、外から来る人たちとのコミュニケーションが面白いって感じ始めるからだと思うのです。そういう芸術の流れの中で、キースがもう少し生きててくれたらなって思いましたね。日本との関わり方も、彼が生きててくれたら色んなことが出来ただろうし、広がりが出来た気がします。

 

村:彼は、グラフティとかアーティストに括られるけど、もう一つ、”アクティビスト”って位置付けがありますよね。

 

All Keith Haring Works ©︎ Keith Haring Foundation

 

藤:社会に働きかけていくって活動ですよね。

 

アートで社会を変えていく. キース・ヘリングが残したメッセージ

 

村:”アートアクティビズム”って言われ始めたのは90年代以降でしたけど、彼はそういう意味では非常に早いと思いますよね。「アートと社会を結びつけていく」「アートで社会を変えていく」ということを早くから、というか、最初からそれをやっていた人でしたよね。
藤:彼が活動をしていた頃なんて、アートと社会を結びつける方向性なんてはっきり定まっていない時代でした し、だって、バスキアにはそういう意識はなかったですよね。「アーティストになりたい」っていう思いが強い人。

 

 

村:バスキアはアート思考の強い人でしたからね。出身はストリートだけどグラフィティアーティストとも違うし、非常にアート思考が強い人だった。一方で、キース・ヘリングは多様的だったと思います。
藤:自分自身の性的趣向もあるし、恵まれない子供達に何かできないかっていう意識は、早くから持っていた人 でした。もちろん、ヨーゼフ・ボイスなどに影響も受けていると思いますが、ボイスはすごく観念的じゃないですか。でもキースは、すごく具体的な社会活動を実践してきた人だと思うんですよね。

 

60年代、70年代NYのフルクサスにおける精神を受け継いだ一人だと、言ってもいいと思うんですよね、キース・ヘリングは。もちろん手法としてはペインティングという古典的であると言えるのですが、精神的意味でいうと、社会を変えていく、アートの力を信じたい、という前衛的な意識を強く持っていた人だと思います。

 

All Keith Haring Works ©︎ Keith Haring Foundation

 

だからやっぱり、今彼が生きてたら、どう振舞ってくれるだろうと思います。本当に生きてて欲しかった。
トランプ政権のときだからこそ余計に思います。日々、とんでも無いことが起きてるじゃないですか。
彼だったら、何かアクションを起こしていると思うんですよね。非常に差別的な閉鎖的な思考を、彼はいちばん嫌っていたし。それは本当に、時間が経てば経つほど、そんな風に思いますね。

 

だからこうして、中村キース・ヘリング美術館10周年という節目の時に、日本との関係性を展示で見せてくれるというのは、とても意味があるように感じますね。
中村館長とのキースの作品が出会った時期と、今とが結びついてる気がしてしょうがないです。

 

All Keith Haring Works ©︎ Keith Haring Foundation

 

だから、絵を見て単に「可愛い」とか「雰囲気のいい作品だな」とか感じるだけでなく、せっかく日本にこんなに素晴らしいキースの痕跡があるので、これからも伝えていかなければいけないなって思います。

 

トークショーを聞いて
80年代をリアルタイムで体験されているお2人のお話から、同時多発的にアートが発生していたという、当時の熱気を感じることができました。

 

そして、改めてキース・ヘリングというアーティストがただ単に「有名になりたい」「アートで成功したい」という動機だけではなく、「アートで社会を変えていく」という意識を持ち、”アートアクティビスト”としてアクションを起こしていた、稀有な存在だったのだと知ることができました。

 

屋内から外へ飛び出し、国境線を飛び越えて制作を続けたキース・ヘリングは「開かれたアート」を世の中に提示していきました。さらにセクシャルマイノリティとしての側面もオープンにして、今以上に差別がはびこる当時の社会に切り込んだ活動も積極的に続けていきました。

 

「今の時代、キースが生きていてくれたら…。」という藤原さんの言葉がとても印象的でしたが、会場にいた人は誰もがそう強く感じたのはないでしょうか。

 

(左から)藤原えりみ氏、村田真氏、中村キース・ヘリング美術館館長 中村和男氏、美術館 顧問 梁瀬氏    All Keith Haring Works ©︎ Keith Haring Foundation

 

【対談者プロフィール】
村田真
1954年生まれ。東京造形大学東京造形大学絵画専攻卒業。
雑誌『ぴあ』編集部を経てフリーランス美術ジャーナリストに。
著書に『美術家になるには』『アートのみかた』『アーティスト・イン・レジデンス研究会報告書』
共著に『社会とアートのえんむすび』『日本の20世紀』など多数。
2004年から開校したBankARTスクールの校長を務める。
また絵画制作もおこない、ZAIMギャラリー、NADiff Galleryなどで個展を開催。

 

 

藤原えりみ
美術ジャーナリスト。東京芸術大学美術科修士課程修了(専攻/ 美術)。女子美術大学・國學院大学非常勤講師。著書に『西洋絵画のひみつ』共著『西洋美術館』『週刊美術館』『ヌードの美術史』『現代アートがわかる本』など多数。

 

 

混沌から希望へ. キース・ヘリングの魂を受け継いだ美術館

 

「闇から希望へ」というテーマの元、建築家・北川原温氏によって建てられた美術館

 

2007年に建てられた「中村キース・ヘリング美術館」は、キース・ヘリングが生きた1980年代のアメリカという混沌とした時代と、だからこそ現代アートが同時多発的に生まれたという背景の「光と影」を、美術館全体で体現しています。

 

「闇の展示室」All Keith Haring Works ©︎ Keith Haring Foundation

 

八ヶ岳の斜面をそのまま生かしたスロープを下ると、まず真っ暗な部屋にたどり着きます。
「闇の展示室」と題された部屋には、初期におこなった個展の作品を、晩年のキース•へリングが再度描き起こしたという作品シリーズ『ブループリント•ドローイング』と、対談内にも出てきた『サブウェイ•ドローイング』が展示されています。

 

『ブループリント•ドローイング』は一見ポップなタッチですが、よく見ると「性」や「暴力」といった攻撃的な内容が含まれています。
彼自身に潜む「狂気」が垣間見られるのと同時に、暗闇の中で、観る人自身が自分の心の奥底と向き合える空間となっています。

 

 


「希望の展示室」All Keith Haring Works ©︎ Keith Haring Foundation

 

暗闇を抜けると、そこは「希望の展示室」。
やわらかな光に包まれたこの部屋の照度は、日本で最も日照時間が長いという、山梨県北杜市の朝日に合わせられているというこだわり。どれほど目の前が暗くても必ず夜は明ける、という”希望”をあらわしています。
さらに床は「大自然と一体」という意味から八ヶ岳の斜面がそのまま反映されていて、斜面上に立体作品群が置かれています。斜めだからこそ、キース・ヘリング作品の躍動感が際立ちます。

 

All Keith Haring Works ©︎ Keith Haring Foundation

 

 

キース・ヘリングと詩人ウィリアム・バロウズの共作《アポカリプス(黙示録)》1988年  All Keith Haring Works ©︎ Keith Haring Foundation

 

《無題1988年8月15日(トライアングル)》1988年  All Keith Haring Works ©︎ Keith Haring Foundation

 

一際大きなこちらの作品は晩年のもの。若くして、国際的なアーティストとして成功を遂げたキース・ヘリングですが、「美術館で作品を展示する」という目標は果たせぬまま、31歳という短い生涯を閉じました。
現代アートが活発だった80年代ですが、当時の美術館はまだまだ保守的だったようです。

 

美術家としての評価を得ようと描かれた意欲作が、こちらの作品だと言われています。
普段の、下書きをしない速書きのドローイングスタイルに対し、綿密な計算と複雑な構成で描かれている作品。
亡くなるまでに、美術館で個展をするという夢は叶いませんでしたが、現在こうして彼の作品は日本の美術館に収められています。

 

希望の象徴として輝く、太陽のような作品でした。

 

そして回廊には、「キース・ヘリングと日本」にまつわる貴重な作品や写真がたくさん展示されていました。

 


 1988年 東京の青山にオープンしたポップショップ・トーキョーのために作られた扇子 All Keith Haring Works ©︎ Keith Haring Foundation

 

 


《無題(掛け軸)》1983年 ぴあ株式会社 代表取締役社長 矢内廣蔵  All Keith Haring Works ©︎ Keith Haring Foundation
掛け軸と縦書き。ぴあ発行の『カレンダー』表紙用に、キース・ヘリングが硯と墨を使って書いた掛け軸。
墨のかすれ具合を計算して書いている。さらに自身の名前をカタカナで縦書きで書いている、大変貴重な作品

 

この他にも、日本にまつわるキース・ヘリングの作品や写真がたくさん展示されています。
世界に数点しか存在しない貴重なものばかり。この機会でしか出会えない、キース・ヘリングの作品とそこから見えてくる彼の表情を、読者のみなさんにも是非見て欲しい。

 


あれから数日が経って、ニュースが流れるたびに、藤原えりみさんの言葉が私の中で反芻します。

 

「キース・ヘリングが生きていてくれたら」

 

彼が生きたアメリカも彼が愛してくれた日本も、今どんどん危険な方向へ進んでいることは誰の目からみても明らかで、こんな時代、彼ならきっとなにか行動を起こしてくれるはず。

けれど、「作品というものは作家から生まれた一つの生命体である」と、以前どこかで聞いたことがあるように、彼はもういないけれど作品は今も生き続け、メッセージをこうして受け取ることが出来ます。

 

受け取った現代に生きる私たちが、どう感じ何ができるかは、その人自身でないとわかりません。
行動に起こせるひともそうでないひとも、アクションへとつづく導火線の長さはひとそれぞれ。

 

だからまず、感じることから始めてみよう。

 

人づてやスクリーン越しに得た情報でなく、実際に足を運び、その場に立って全身で体得すること。当たり前のようで今最も失われてしまっている感覚を、これほど思い出させてくれる美術館は、日本中探してもないんじゃないかと、中村キース・ヘリング美術館に行くたびに感じます。
ぜひ、足を運んで体感してください。
変化を恐れなかった、勇敢で心優しいアーティスト、キース・ヘリングのメッセージを。

 

【アーティスト情報】

 

 

キース・ヘリング(1958 – 1990)

 

キース・ヘリングは、アンディー・ウォーホルやバスキアなどと同様に、1980年代のアメリカ美術を代表するアーティストです。80年代初頭にニューヨークの地下鉄で、黒い紙が貼られた使用されていない広告板を使った通称サブウェイ・ドローイングというグラフィティー・アートを始めました。そのコミカルで誰もが楽しめる落書きは、地下鉄の通勤客の間で評判となり、一躍キースの名を広めることになりました。
1980年から86年の間には、次々と展覧会が開催され、国際的にも高く評価されました。ニューヨークのタイムズ・スクエアのビルボードのアニメーションから、舞台デザイン、キースのグッズを販売するポップショップをオープンするなど、制作活動は多岐に及びます。また世界中で壁画を制作したり、ワークショップなども開催し、社会的なプロジェクトも数多く手がけました。日本でも展覧会やワークショップの開催や、ポップショップも展開されました。
1988年にはHIV感染と診断され、その翌年に財団を設立しました。1990年31歳で亡くなるまで、アート活動を通してHIV/AIDS予防啓発運動にも最後まで積極的に関わりました。
(中村キース・ヘリング美術館 公式HPより)

 

【展覧会情報】
中村キース・ヘリング美術館開館10周年記念展キース・ヘリングと日本:Pop to Neo-Japanism
会期:2017年2月5日(日)〜2018年1月31日(木)
開館時間:午前9時〜午後5時
休館日:2017年6月26日(月)~6月30日(金)

 

 

【特別展示】
「パトリシア・フィールド アートコレクション Patricia Field Art Collection」展
2017年 7月1日(土)〜2017年11月18日(土)

 

 

「アート&ランゲージ:Wosene」展
2017年11月23日(木・祝)〜2018年1月31日(水)

 

中村キース・へリング美術館
〒408-0044
山梨県北杜市小淵沢町10249-7
TEL:0551-36-8712
http://www.nakamura-haring.com



Writer

多田 愛美

多田 愛美 - manami tada -

新潟出身。大学でカルチュラルスタディーズを専攻し、卒業後は広告代理店のもとで映画の販促キャンペーン等を企画。その後、銀座のギャラリーに勤務し美術雑誌に携わる。ホワイトキューブを飛び出した、ひらかれたアートに感銘をうける。幼少期からピアノに触れ、上京後に作曲、ツーピース、トリオの演奏活動も行う。

情報過多な今に対応しきれないコンプレックスを抱えながら、アートを通して世界の今を覗く。アーティストの生き様から息遣いまで届けられたらと思います。

 






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